【解説】ええじゃないか 尾道と福山

ニュース解説 ジャーナリスト 毛利和雄
1948年生まれ。早稲田大学第一政治経済学部卒業。NHK入局後、奈良、大阪局を経て、歴史遺産、景観、まちづくりを担当のNHK解説委員をつとめた。NHK退局後、鞆の浦に在住。これまでの経験を活かし、歴史や文化資産を活かしたまちづくりについて広く伝えている。ラジオ出演や講演活動も多い。


4月10日(月)放送の内容をWeb用に再構成したものです。

きょうは幕末から明治維新の時の尾道はどうであったのか、フリージャーナリストの毛利和雄さんに伺います。
民衆が熱狂して踊りまくる“ええじゃないか”騒動が、幕末に尾道で起こったそうですがどんな状況だったのでしょうか?
 

尾道で“ええじゃないか”が起きたのは慶応三年十一月末、西暦では1867年。この年には十五代徳川将軍慶喜が大政を朝廷に返還する大政奉還が行われます。翌年、慶応四年が明治元年で、戊辰戦争が起こり新政府軍が旧幕府軍を破って新政府の権威が確立します。
ええじゃないか騒動は東海地方が発祥の地とされ、その後、畿内から四国、中国地方にも広まります。
尾道では十一月の末の夜、「伊勢神宮」のお札が商家に降り、続いていくつかの商家に金毘羅宮などいくつもの神社のお札が降ってきて、それをきっかけに町中で男も女も仮装したりして参加し「エジャナイカ、エジャナイカ」と囃子ながら踊りまわるという事態が起こります。商家やお寺などは打ち壊しにあったら大変ですから、酒や食べ物を振舞って難を避けようとする騒動が続きました。
 
ええじゃないか騒動は何が原因でおこたのですか?
大政奉還で政権が徳川将軍から朝廷に返還され、長州や薩摩などが作った新政府が政権を握りますが政権の確立は平和のもとで行われたのではありません。ええじゃないか騒動が起こった翌年の慶応四年に戊辰戦争がおこり、新政府軍が旧幕府軍を打ち破って新政府の支配が確固たるものになります。
尾道でええじゃないか騒動が起こった時は新政府側の長州藩と芸州藩、広島藩ですね、軍隊が旧幕府側の福山藩を攻撃しようということで、時を同じくして尾道に陣を構え、お寺などに駐屯します。
妙宣寺芸州藩は総勢百八十名あまり、妙宣寺に宿泊。長州藩は、銃砲隊二隊とそれに付属する部隊で千人余りが西国寺などに分宿します。それと時を同じくしてええじゃないか騒動が尾道で起こりますが、攻められる恐れのある福山の城下町は真ったくその兆候はなく、不気味と言えるかもしれませんが静寂が続きます。
そこで尾道出身の作家の森岡久元さんが最近出しました尾道市立大学 文化芸術学部 日本文学科が発行元の「尾道文学談話会」の会報に「ええじゃないかが尾道に来た日」という題の歴史エッセイを発表され、その問題について推理されています。
最初にお札が降った場所について、長江通りを下って薬師通と交差する辺り、久保町と十四日町の境で尾道の問屋業の中心地あたりと推測されています。最も騒ぎが大きな影響を与えられる場所です。
ええじゃないかの囃子言葉ですが「エジャナイカ、エジャナイカ長州サン、御登り。エジャナイカ長ト薩ト、エジャナイカ」とあり、長州と薩摩が都の京都に登るのはエジャナイカと囃子ているので、新政府軍側の人間か、そのシンパが仕組んだのではと推理されています。もっとも民衆が騒ぎまわる背景には、年貢の取り立てや飢饉が頻発していることなどへの不満が溜まっていることもあるようです。詳しいことは森岡さんの小説を読まれるか、来月には尾道市立大学での講義の中で直接話されるそうですから、聞きに行かれるかすればいいと思います。
 
尾道は長州、芸州藩の軍が駐屯して、ええじゃないか騒動が起こったのに、福山は静かなままだったということですが、戊辰戦争での長州・芸州軍の福山攻撃はどうなったのですか?
慶応三年十二月一日に長州軍・芸州軍が尾道に駐屯し、年が明けて慶応四年正月三日に戊辰戦争が始まります。京都の鳥羽と伏見において、薩摩藩・長州藩による新政府軍と旧幕府軍が戦闘を始めた鳥羽伏見の戦いです。

尾道に駐屯していた長州軍は陸路福山に向かい、九日未明に福山城を包囲。砲兵隊が福山城本丸に対して一斉攻撃を開始、大砲による攻撃で、大砲の玉が一発本丸に命中します。そのまま戦闘が行われると城下町を巻き込んでの戦いとなるし、利あらずとみて福山藩は恭順の意を表し戦わずして帰順しました。
この長州軍の福山城攻撃を前に芸州軍は、戊辰戦争が始まったので海路岡山に向かいます。長州藩は、福山藩を帰順させた後、鞆港から海路東へ向かい、姫路、熊野藩などに新政府側への基準を進めながら大阪に入り警備についたということです。
それでは戊辰戦争を経て新政府が確立したが、尾道も福山も実際にはほとんど実際の戦いはなかったということで、良かったですね。
いやそんなことはないんです。尾道は、港町で、芸州藩の外港は宮島ですが、尾道も北前船など水運で栄えました。ところが、北前船、当初は「地乗り」といって陸伝いに航行していましたが、途中から「沖乗り」と呼ばれる瀬戸内の島伝いに航行するルートが開発されます。地乗りの時は、忠海や尾道などに寄港していた北前船が、沖乗りルートだと御手洗、岩城島、弓削から鞆へのルートを選ぶようになり、尾道へ寄港する北前船はどんどん減ってきた。それに加えて芸州藩が、藩札を大量に発行しインフレが起こるのですが、よその地域から来た船からモノを買い付けるのに藩札は使えず金銀銅の貨幣を使わなければいけない。ということで、尾道の商人にとっては弱り目に祟り目といったときにええじゃないか騒動が起こり店が襲われるかもしれないという災難に出会うことになりました。
一方、福山藩は、幕末というと日米和親条約を結んだ老中阿部正弘が藩主として有名ですが、わいろを贈っては老中と言った役職に就くなど猟官に精を出し、そのために年貢の取り立ても厳しいということで、百姓一揆もほかの藩より大規模なものが起こります。長州に攻められたときは藩主は変わっていますが、藩財政が苦しいにもかかわらず、新政府軍に帰順したら、旧幕府側が最後の砦にした北海道の函館戦争に出兵せよと命ぜられ、多額の借金をして参戦する。また、明治維新後も新政府に冷遇され、独立して一つの県になってもおかしくないのに、小田県とされ県庁は笠岡、すぐに岡山県に編入され、続いて広島県に編入されるといった具合です。政権に対して斜に構えて、なにか屈折している福山人の気質はそうした歴史とも関係あるのかもしれません。
尾道は、港町、商人の町、幕末から明治にかけて有為転変がありました、四国の住友鉱山との関連の水運がありますし、いくつもの銀行ができるなど繁栄は続きます。
森岡さんは尾道の商人の盛衰を題材に大河小説を書きたいと準備され、今回の歴史エッセイも発表されました。早く小説を書きあげていただきたいと密かに期待しています。

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